外食に対する拭えない恐れと、コーエン兄弟の映画「シリアスマン」で感じる胸騒ぎ
日曜日だし、久しぶりに奥さまと市役所近くの回転寿司店で昼飯。
しっかり感染防止対策してあるようだったけど、後ろをマスクをしていないオッサンが咳をしながら通ったり、子どもたちが縦横無尽に騒いでいたりで、以前のようにリラックスして食事できない。
さらに、公式サイトでは行っているとされていた、備え付けの醤油のボトルやガリの容器の、前の客が使い終わったあとの除菌作業を実行していないことにガッカリ。
食事中、醤油のボトルに触れてから、これは前の客が触れていたのかと思い、モニョってしまったけど、案の定だった。
入り口での手指の消毒も、やる人、やらない人、それぞれだったし、不特定多数の客が利用する飲食店は、まだ、ストレスフリーで食事することはできなそう。
晩飯後、Amazon Primeで100円レンタルしていたコーエン兄弟の09年の映画「シリアスマン」を自室のノートPCで観る。
これまでユダヤ教徒に関する揶揄やギャグが入る作品はあったけど、本作はそのものズバリ。主人公はユダヤ教徒の家族で、取り巻く世間もそれ。
不条理な不幸の連続に追い込まれていく主人公を見守っていると、突如、湧き上がってくるのは「そんなこと、どうでもいいのさ」っていう感情。
コーエン兄弟のインタビュー記事を読むと、1967年の彼らの親世代の空気感を描いているらしいけど、自伝のエッセンスもはいっているような。
そんな作品の世界観を、極東の異教徒の僕がどこまで理解できたかは分からない。そして、この作品がユダヤ教徒に、どんな感じで響くのかも分からない。
ただ、観終わったあとに、強い酒を煽りたい衝動に駆られるのと、ジェファーソン・エアプレインを聴きたくなったのは、偽りなき僕の感想だと思う。