親の老いに寄り添うということ

奥さまが休みの日にしては、ちょいと早めに起床。おしゃれ着洗いして、自室を掃除したら、西鉄久留米駅へ母を迎えにいき、バスに乗って久留米大学病院へ。

2月の頭に眼科で加齢性黄斑変性症だと診断され、その翌週から眼底注射の治療を受けているのだけど、今回で5回目となる。医師の診察によると、注射の効果で症状は改善しており、ここからは維持期にはいるとのこと。今まで4週ごとの治療だったのを、プラス2週ずつ間隔を開けていくことになるのだけど、7月は祝日があるため、次回は5週後になった。

大学病院で診察を受けるということは、「待つ」ということが大半のイベントで、待合室の椅子に座っている時間がほとんど。それなのに、疲れてしまうんですよね。

あと、周りの老いた患者さんたちは、目を患わっているのはもちろんだけど、足元がおぼつかなくなって杖をついている方が多い。その中には一人で来院している方も少なくなく、ヨロヨロと歩む姿を見ていると、それが将来の自分の姿であるかもしれないことに怯える。

久留米に引っ越したのは、親の老いに寄り添うためでもあった。でも、寄り添ううちに、自分の老いも意識するようになってくるんですねぇ。


夜、以前、東京三世社系列の編プロの仕事経由で知り合ったAさんから電話。たぶん2年半ぶりではなかろうか。いつもメールだったから、電話で話すのは、もっとぶりかな。

なんでも、件の編プロの発注がいろんな意味でキャパオーバーなので、手伝って欲しいとのこと。内容的には問題ないのだけど、案の定、原稿料の相場が以前より下がっていて、うんざりしてしまう。まあ、お請けしますけどね。