東ノボルさんについて

今日はライターの東ノボルさんこと、笠原一幸さんの命日。偶然、縁のある方からTwitterで連絡が来たことがあり、いつもより笠原さんについて振り返った1日だった。

笠原さんと最初に会ったのは、たぶん1980年代末のこと。某編プロのスタッフとしてだった。主にアダルトビデオの撮影現場を取材したポジフィルムを借りて、原稿を書いてもらうという、仕事上の付き合いだった。

また、僕がAV専門誌の編集長を務めるようになると、さらにAVレビューやインタビューの仕事も依頼するようになった。あと、ダイヤモンド映像に素材を借りに行く仕事も請けてもらっていたっけ。

その後、テレクラ、援助交際ブルセラなど、多岐にわたって取材され、女性用アダルトコミック誌が流行りだすと、AV男優と女性読者の企画のコーディネートなども請け負ったり、アダルト業界で東ノボルの名前を知らない人はいないんじゃないかってくらい、七面六臂の活躍だった。

僕が新大久保の編プロで働くようになると、笠原さんの新宿御苑近くのマンションの一室の事務所に顔を出すようになった。深夜になると、二丁目の定食屋に食事に行ったりした。

食事といえば、仕事を抱えずぎて、食べるヒマを惜しんで働いていたため、せっかく注文したデリバリーの弁当やコンビニのおにぎりが、そのまま放置してあるのを何度も見たことがある。

そのせいで、健康診断でだったか、栄養失調だと注意されていた。ああいった生活が、結果、笠原さんの身体を蝕んでいったのかもしれない。

長めの髪にヒゲ、サングラスと、ちょいと怪しめの風貌だったけど、その目はなんにでも興味を持つ子供のようにクリクリしていた。話し声もちょいと高めで、ドスなんか効かない感じ。

また、正義感が強い人で、相手が正しくないと思うと、どんなに怖そうな人物でも果敢に向かい合っていた。そのおかげで、花園神社あたりのマンションのエレベーターの中で、怖い思いをしたことがあったっけ。あれは僕と取材相手の女性がいたから、怒りを抑えてくれたのだろう。

そして、優しさも底なしで、取材などで知り合った、問題を抱えた女性たちをサポートすることもあった。特に多重人格の女性のことは、よく話を聞かせてもらっていて、公私ともに関わっておられた。笠原さんにお世話になっていた女性たちは、今頃、どうしておられるのだろうか。