立ち飲み屋についての認識が他の人と違うということ

たまに行く立ち飲み屋が新型コロナウイルス感染拡大を受け、4月6日から営業を自粛していて、さらに、緊急事態宣言を受けて自粛延期。先週、福岡県は宣言が解除されたけど、今月いっぱい自粛するんだそうな。

なるほど、店主は慎重な方なんだな、なんて感心したけど、もにょったのが、彼の告知文の中の「立飲み屋は三密を免れません」という言葉だった。

立ち飲み屋って店員がマンツーマンで接客しないし(むしろ放置され気味)、他の客とは横並びで面と向かわないし、ふらっと来てサクッと帰れば、注文以外、何も喋らない、なんてことも珍しくない。

そりゃあ、常連さんと会ったときは、ちょいと世間話はするけど、お互いの領域を侵すような野暮なことはしない。それどころか、酔って会話すると争い事になるから、下手に他の客に話しかけるなって旨のことを、所轄の警察署の電話番号を添えて貼り紙してる店だってあったくらいだ。

これがどうして三密を免れないだろう? しばらく考えていて、トイレの個室でボンヤリしてたら、ようやく僕の想像力が謎に追いついた。

店主が見ている立ち飲み屋の風景と、僕が見ている風景が違うのだ。彼が見ている立ち飲み屋には、友だちや家族とワイワイと楽しく飲んでいる風景があったのだろう。そういえば、あの店はそんな雰囲気があった。

なるほど、と納得したとともに、僕があの店を「物足りない」と思っていた、不足している“味わい”が何なのか分かった。それは「殺伐」だったのだ。あの店だけではない、久留米の酒場に足りないのは、一人飲みの愉しみのひとつだと僕が思っている「殺伐」とした空気感だったのだ。